僕が名前も知らぬ「彼」と知り合ったのはとある放課後のことだった。
その日紫苑は委員会の仕事があったためいつも一緒に帰っていた沙布に先に帰っていてくれと頼み、一人教室の中でプリントを分けていた。
もうホームルームが終わってから暫く時間がたっているせいか周りには人っ子一人いなく、廊下にも人影はまばらだ。
開いている窓から時折聞こえてくる生徒達の部活動の声を聞きながら紫苑は黙々と作業をしていた。
少しずつだが手元にあったプリントは減っていき、残りが五枚ほどになったところで顔を上げる。教室はもう夕焼け色に染まっていて、作業を始めた頃聞こえていた生徒達の声も少なくなっている。
「もうこんな時間か……」
時計を見てみると部活動が終わる時間を指しており、あと三十分もすれば校門が閉まってしまう時刻になっていた。
「早く終わらせなきゃ」
校門がしまってしまう前に帰らなければと先程よりも早めにプリントに目を通しながら鞄に教科書や参考書などを入れていく。今日はいつもよりも鞄が軽いななんて考えながら作業をしていると思ったよりも早くプリントを見終わったため、座っていた椅子から立ち上がる。年季の入った古い椅子はみしっと音を立てて軋んだ。
さて行こうかと椅子と机を整えると紫苑は教室を出ようと入り口の方に向かう。前のドアに手を掛けようとした手を伸ばした…・・だがその手はドアに届くことなく宙に浮いた。
「なんだ、まだ生徒が残っていたのか」
それは何故か?
簡潔に説明すれば手を掛けようとしていた入り口が先に開いたから、だ。紫苑が内側から開こうとしていた扉は外から別の生徒によって開けられた。
「もう校門が閉まるまであと十分しかないぞ、早く下校した方が良い」
入り口を開けた人物は紫苑にそう告げた後教室に入ろうと足を踏み出す。
「……おい?」
だがすぐに立ち止まった。
入ろうとして開けた扉の入り口には紫苑が立っているため入れなかったからだ。何故帰ろうとしないのかとその目が告げている。だが紫苑はどかなければ、と思いつつも目の前の人物から目が離せなかった。
綺麗な人だ、と一目見た時思った。
艶やかな髪や意志の強そうな瞳、心地良く耳に響く声。
挙げだしたらきりがない。一体彼は何者なのだろうかと疑問ばかりがわいてくる。
とくりと胸が高鳴った。
「あ、あの……」
「……なんだ」
思い切って話しかけようとしてみたが緊張のせいか上手く声が出せない。だが目の前の人物は紫苑が話し始めるまでちゃんと待っていてくれている、それに勇気づけられて言葉を発しようと口を開く。
「あなたの……」
だがその言葉は遮られた……学校のチャイムの音によって。
折角彼の名前を聞こうと思い切って口を開いたのに遮られてしまい気勢をそがれた紫苑は半ば呆然としていた。
開きっぱなしの口を閉じる事もせず、ただ呆然と目の前の人物を見つめる。
そんな紫苑がおかしかったのかくすりと目の前の人物は笑い始める。
「あんた……なんて顔してるんだよ」
よほど紫苑の表情がツボに入ったのだろう、笑いは大きくなるばかりだ。
始めはその笑顔を見ているだけだった紫苑だがさすがに笑い続けている彼にそんなに笑わなくてもいいじゃないかと拗ねた気持ちになり、ふいっと顔を背ける。
「そんなに笑わなくても……」
「悪いッ……あんたがすごい間抜けな顔してたから」
未だに笑っているものの先程よりは抑えた声でそう言われた。そんなに間抜けな顔をしていたんだろうかと一瞬考えてこんでしまった。でもそれにしたって人の顔を見て笑い出すなんて失礼じゃないか、とぷくりと頬を膨らませると悪い、と再度言われ頭を撫でられた。
その優しい手つきにまぁいいかと思ってしまう自分はなんて単純なのだろう。
「ほら、もう校門が閉まるから早く校舎から出た方が良い、今から走ればぎりぎり間に合うだろう」
少しの間紫苑の頭を撫でた後、暗くなっていく外に気付いたのか目の前の人物はそう紫苑に告げて廊下を指さす。
確かに時計を見てみたら校門が閉まる数分前になっていて今から走らないと学校に閉じこめられてしまうだろう時間だ。
紫苑も焦りはじめて教室を走り出ようとしたのだがふと足を止める。
「君は帰らなくても良いの?」
目の前にいる少年も自分と同じ制服を着ているのだからきっとこの学校の生徒だ。だから彼も校門が閉まってしまったら外に出られないはず、そう思ったのだ。
だが少年は問題ないとばかりに首を振る。
「いや、俺はまだやることがあるから帰らない。あんたは俺に構わず早く帰った方が良い」
そしてもう暗いしな、なんて言いながら身を翻した。
「え、どうして君は帰らないんだい?やることって?」
浮かんだ疑問を口に出すと玄関に向かう廊下とは逆方面の廊下を歩き始めていた彼が振り返った。口元は緩く弧を描いている。彼は紫苑の方をじっと見ながら口元に人差し指をやり妖艶な笑みで囁いた。
「秘密だ」
ただ一言そう言った彼は立ちつくしている紫苑をちらりと見た後去っていった。
少年の発したあまりに艶やかな声や表情に魅せられた紫苑はしばらくその場所から動く事すら出来なかった。
*****
その日の放課後から紫苑は本を片手に下校時刻ギリギリまで教室に残るようになった。
彼にもう一度会いたい、会って名前を聞いて話をしてみたい。日日が経つごとにその思いは大きくなっていく。
一週間たっても彼には会えていない。だが紫苑は諦めるつもりなど毛頭なかった。彼に会えるまで、それか彼に関する手がかりを掴めるまではこの放課後の時間を続ける、そう意志を固くしていた。
今日も今日とて教室で読書。
毎日放課後読んでいるため家にあった本は読み終わってしまい最近読んでいる本は学校から借りてきたものだ。
ジャンルを問わず目に付いた本を借りてきているため、最近はいろいろな知識が増えてきている。今日は宇宙に関する本だ。惑星に関する研究報告や写真。自分が学校で習っていないことが沢山載っているから非常に興味深いしおもしろい。
彼に出会えた後もこの習慣を続けても良いかもしれないと思うくらいには紫苑はこの時間を気に入っていた。
その後も黙々と本を読んでいた紫苑だったがとあるページを見た時自然と声をあげてしまった。
「すごい……」
本のページを一枚捲って見えたのは数枚の恒星の写真だった。
青色、白色、その周りの赤やオレンジ色。
鮮やかな色をした恒星が集まっている星団につい見入ってしまう。
一言に星団と言ってもすべてが同じものではない。大きさやその星団の密度、集まっている恒星の数などいろいろと違うところがある。
とある写真の下についていた解説文には二千個の恒星が集まっていると書いてありそんなに沢山の星が集まっているのかと感心してしまった。
「二千個かぁ……」
もう少し宇宙の本を探してきて見てみようか、明日はそれを見ようなんて考えながら紫苑はページを捲る。予想以上におもしろい本の内容に紫苑は夢中になってそれを見る。
だから教室の入り口が開いたのにも、ずっと会いたいと思い続けていた人がそこに居たのにも全く気付くことがなかった。
***
「ふぅ、」
しばらく本を読み続けていた紫苑だったが手元が少し暗くなってきたのに気付いて本から目を離す。目を悪くしてはいけないし電気を付けに行こう。そう思って目線を上にあげ、立ち上がろうと椅子に手を掛けた。
「え……」
だが立ち上がりかけた動きのまま紫苑は硬直した。自分一人しかいない、そう思いこんでいた教室に人が居たのだ。
今まで紫苑が放課後残っていても教室に来る人は居なかった。だが今日は一人だけ自分以外の人物が居る。
その人物は窓際で鮮やかな夕焼けを見ながら紫苑と同じように本を読んでいた。前から二番目の席に座っていたその人は紫苑がそちらを見ている事に気付いたのか椅子から立ち上がり近付いてきた。
紫苑はその様子をただぼうっと見ていたがその人物の顔を見て唖然とした。
彼だったのだ。
紫苑がずっと探し求めていた彼がそこには居た。
もう紫苑と彼の距離は一メートルたらず。どんどん近くなっていく距離に胸の鼓動が激しくなっていく。
あと三歩、二歩、一歩。
机の手前で彼は立ち止まった。顔をあげると艶やかな黒が目に入り、またもや紫苑は見惚れてしまった。
「その星団、地球からは二万五千光年離れているらしい、途方もない距離だよな」
そう彼が話しかけてきて紫苑ははっと我を取り戻した。
彼の目線は紫苑が手に持っている写真に向けられている。きっとこの星の話だろう。
「そうだね、壮大すぎて僕の理解の範疇を超えてるよ」
そう返せば目の前の彼はくすりと笑った。
「まぁ、それもそうだな」
それからたわいもない話をした。
お互いが知っている宇宙の話だとか最近読んだ本の話だとか。
彼はよく図書館にも通っているらしくおすすめの本を何冊か教えてくれた。宇宙に関する本と一緒に明日借りてきてみよう、そう思いながらノートに本の名前のメモをとる。
本の名前を書き留めた時、紫苑ははっと彼の、彼自身の名前を聞いていない事を思い出した。
彼の名前、彼の事を知りたいがために会いたいと願っていたのに第一目的を忘れていたなんてと内心苦笑するばかりだ。
secret meeting SAMPLE